代表プロフィール

なかにしゆり

代表 なかにしゆり

共創ファシリテーター/ビジネスプロデューサー

宮城県仙台市出身。
30年仙台市役所にて、主に市民協働、広報・広聴、啓発、研修業務等に携わる。
20102月、NPO法人日本ファシリテーション協会に入会。

市役所にてまちづくりや課題解決の市民向けワークショップや職員研修、業務改善、チームビルディングなどにファシリテーションスキルを活用し、住民自治や業務改善を促進。
オフサイトには自主勉強会も実施する。

また、2012年の経済局時代に、(株)システムインテグレーションのビジネス・プロデューサー養成講座を修了し、ビジネス・アライアンスの促進に務める。
並行して市民活動でダイアログイベントや防災・減災デザインセッション、まちづくりフューチャーセッションなどを主催している。

20174月、共創ファシリテーター・ビジネスプロデューサーとして独立。
現在は、住民対象ワークショップ・ファシリテーターや、会議ファシリテーター、企業・行政・住民対象のファシリテーションをはじめとするコミュニケーション講師としての活動をしている。

また、組織(個人)や地域の強みを整理して新規事業の創出をサポートしたり、より人に伝わるWebサイト構築やWebコミュニケーションのコンサルティングをするソーシャルオーガナイザーとしても活動している。

現在、NPO法人日本ファシリテーション協会理事  https://www2.faj.or.jp/
ガイア都市創造塾 第1期生 https://www.gaiable.com/
チェンジ・ザ・ドリーム シンポジウム ファシリテーター http://changethedream.jp/


その他参考URL
http://blog.canpan.info/minmin-kpro/monthly/201405/1 (加藤哲夫メモリアルワークショップ)
https://greenz.jp/2014/09/02/yuri_nakanishi/ greenz’ 掲載「変わった公務員を100人増やしたい!」)

 

これまでの歩み

いったんは夢を断念

小学校のころは「作家」か「記者」、または「小学校教師」になりたいと夢見ていました。
その夢は大学受験まで変わらず、教育学部を受験しましたが1回目は失敗。

その後「女が学問をするなんて」という父親の反対を振り切り、浪人生活を送っていましたが、父親の意見を聞いて滑り止めに受けた市役所に、結局は就職し大学受験は見送りました。

「学びは働きながらでも継続できる」と、夜間大学に入り教員を目指しますが、大学3年生の夏に父親が癌で倒れ、母親と共に看病するために、大学に行けなくなってしまいました。

大学4年生の冬、父親が逝去。
単位を取るため、もう一年大学にいようと考えましたが、さまざまな事情で卒業することになり、一旦、教員になる夢をあきらめました。

市役所で仕事の楽しさに出会う

市役所では3つ目の人事異動で職員研修所に所属。
職員研修所は教員を目指していただけに楽しく、自分なりに仕事の楽しさを見出だし始めました。

その後、市政だよりを5年間担当することとなり、「記者」になりたいという夢を叶えることができました。
一眼レフカメラの撮り方を覚えたのも、この頃でした。
市政だよりの編集・発行のために、さまざまな場所に取材に出向き、仕事だけではなく自分自身の「やりたいこと」を見つけて人生を謳歌しているたくさんの人の姿に、心を動かされました。

その後も、環境局、区役所まちづくり推進課(広報広聴・まちづくり)、選挙管理委員会、経済局、区役所障害高齢課、職員共済組合(健康経営)と、さまざまな分野を渡り歩きました。

 

ファシリテーションとの出会い

一番初めに自分で企画したワークショップは、1999年、区役所まちづくり推進課に所属していたときでした。
当時はまだ「ファシリテーション」という言葉も知らず、「ワークショップ」という言葉すら、あまり使われていませんでした。

「グループで話し合いをする職員研修のようなものを、市民対象に実施してみたらどうだろうか」
そんな思いに、当時の上司たちが共感してくれて、市民の意見を集めるためのワークショップが実現しました。
これが、初めての「ワークショップを使った市民意識調査」の経験となりました。

「ファシリテーション」という言葉を知ったのは、2003年、選挙管理委員会事務局に所属していたときでした。
「なかなか上手にいかない、市民ボランティアの会議をどうにかしたい」と思った時、インターネットで知ったのが「ファシリテーション」だったのです。

「なんだ、こんなに簡単なことを意識するだけで、会議ってうまくいくんだ」
「もっと早く知っていれば・・・」
ファシリテーションを学び、ものすごい衝撃を受けました。

その後、見よう見まねでファシリテーションやワークショップの進め方を学び仕事に生かしていましたが、2009年、NPO法人日本ファシリテーション協会と出会い、どんどん学びを深め、市民参加ワークショップや、市役所内外のさまざまなな会議に応用し始めました。

ジェットコースターのような市役所人生

約30年にわたる市役所勤務は、「とっても面白い」と思って仕事がものすごくうまく回り始めると、必ず、何か大きなトラブルに見舞われるというものでした。

例えば、選挙管理委員会で広報を担当していたときには、当時人気だったゆるキャラのマスコットキャラクターを誕生させたり、テレビ・ラジオCM制作に携わったり、当時としては珍しかったメディアミックスの仕事も担当しました。
Webサイトの構築に初めて携わったのもこの時期で、半年かけて職場のWebサイトを手作りしました。
市民ボランティアの皆さんと「投票率向上」のための活動をしていたときには、深夜番組とコラボレーションで選挙啓発ヒップホップソングの制作もしました。

この市民ボランティアの活動により、全国大会で表彰されるということも経験しました。

 

初めての経験、そしてそこからの学び盛りだくさんととても充実していたのですが、残業続きのあまりの忙しさと、市民ボランティア同士の諍いや市民と行政との板挟みを経験し、ついには身体を壊して3カ月の病欠をとることになってしまいました。

「仕事は楽しいし、とても素晴らしい市民・同僚に恵まれているのに、身体も心もこれ以上持たない」
ちょうど、子どもが幼稚園に入ったばかりだったこともあり、当時はそのまま仕事を辞めてしまおうかとも考えました。

ところが職場復帰後、異動した環境局の市民協働事業があまりにも楽しく、結局、仕事を継続することになったのです。
自分自身の人生を振り返るきっかけとなった、故加藤哲夫さん(せんだい・みやぎNPOセンター創始者のお一人)との出会いもこの時期でした。

そんな、極端に「楽しい」と「苦しい」が、人事異動のたびに繰り返されました。

東日本大震災の経験から

2011年3月11日、東日本大震災。

当時は環境局に所属、当日は200人を超える市民を集めたイベントの真っ最中でした。
ご高齢の方ばかりのイベントはパニック状態でしたが、幸いなことに地震による怪我をおった方は一人もいらっしゃいませんでした。

震災翌日からは災害対応に追われ、誰でも経験ができるわけではない、「発災時の地方公務員」を経験することができました。

大震災では、市役所の友人を津波で亡くしました。
「一歩間違えば、私が死んでいたのかもしれない」
そんな思いから、「自分でなければできないことは何か」と考え、「職員の経験を伝える」ための活動にも携わりました。

 

発災時に地方公務員としてどうあれば良いのか、発災に向けてどんな知識・備えが必要なのか・・・。
住民としてのあり方、公務員としてのあり方、それを伝えたい。

そんな思いで、発災時の職員の経験ヒアリングや、経験を語る会などを実施していました。

よみがえる「子どもの頃の夢」、そして今

2012年4月からは経済局に異動。起業家や第二創業を目指す企業などの支援や、クリエイティブ産業振興などの仕事に携わりました。

震災後の混乱期、自分たちのスキルと経験を生かして社会を変えようと頑張っている多くの方々との出会いに、共に心踊らせ、再び「自分らしく社会貢献する」ことを考え始めました。

そこから、オフの時間を活用して、復興支援ボランティアを立ち上げたり、防災減災のためのワークショップを開催したり、復興の場の話し合い支援に携わったりし始めました。

防災減災ワークショップを開催する中で、「人と自然」が仲良く暮らせる社会を創ることが大切だと痛感したことから、独立することを決めました。

2016年11月、チェンジ・ザ・ドリーム シンポジウムファシリテーターの資格を取得し、「地球と人との優しい関係」「誰もが心豊かに生きられる社会」を目指すためのワークショップの開催も始めました。

2017年1月にはガイア都市創造塾に入塾し、自分らしく社会に貢献するあり方を模索し続けました。

 

そして今、講師として子どもの頃の夢だった「先生」として活動することを叶えました。
講師業のかたわら「記者」としての夢も、ソーシャルオーガナイザーとして叶えようとしています。

ガイア都市創造塾の学びの中で思い出した、もう1つの夢だった「作家」も、数年かけて実現させていくために、準備を進めています。

自分らしく社会に貢献するため、「ファシリテーター」「講師」そして「ソーシャルオーガナイザー」として邁進していきます。